〜(2)〜

旅の仲間達は何の前触れもなく捕らえられた。
突如空中から湧き出るように、いくつもの矢が彼らを取り囲むように して突き出される。
やがて森の中から薄い色の髪をしたエルフ達が現れて、アラゴルン 達は動きを止めた。
レゴラスが側ですでに矢をつがえていたが、アラゴルンはその腕が かすかに震えているのに気づいた。

背の高い、ハンサムなエルフが進み出る。
その男を認めると、アラゴルンは大きく息をついた。
「ロリアンのハルディアか」
彼は会釈をした。
「助けを求めに来た。あなた達の保護が必要だ」

「アラゴルン、この森は危険だ!引き返そう!」
ギムリがうなった。

がっしりとしたドワーフに視線を落としたハルディアの表情に、嫌悪を 帯びた冷笑がひらめく。
「我らの奥方のもとへドワーフなぞを連れてきたのか、エステル? もう少し分別があると思っていたが」

答えようとしたアラゴルンはしかし、ハルディアの声を聞いたレゴラスが はっと息を呑むのに気づいた。

「会えて嬉しいよ、美しき同胞どの」
ハルディアはやんわりとそう云って、意味ありげに相対するエルフを 眺めた。

レゴラスの顔が蒼白になった。
頬に残る説明のつかない跡が赤く浮かび上がり、顔の青白さが ますます強調される。
弓をつがえる手に力が入る。
アラゴルンは一瞬、この友人が本当に矢を放つのではないかという 恐れを抱いた。

「レゴラス!」鋭い声で諌める。

エルフが我を取り戻したように見えた。
ハルディアを凝視していた視線をもぎ離し、アラゴルンのほうを向く。
その瞳は血走っていた。

「大丈夫です」
ざらついた声音でレゴラスが主張した。
「大丈夫」

そう繰り返すのを聞いて、アラゴルンは彼が全く大丈夫でないと 確信する。レゴラスの何かがひどくおかしい。
普段穏やかなこのエルフがここまで取り乱すなど、アラゴルンは 見たことがなかった。
しかし、残念ながら、今はこの友の明らかな変調について詮索する 余裕はない。

「我らには奥方の保護が必要なのだ」
アラゴルンはとりあえずの間、レゴラスのことを忘れようと努めながら ハルディアに云った。
「この中に、指輪を持つ者がいるのだ。奥方は我らを追い出しは すまい。誰一人な」

ハルディアは明らかな失望を見せながら、レゴラスから視線を離した。
軽蔑の色を隠そうともせずにギムリを見下ろす。
「お前がこいつの保証人となるのなら、通してやろう。ただし」
−−アラゴルンには、このエルフの視線がちらりとレゴラスに 向けられたように見えた−−「ドワーフがロスロリアンへの入口を 見ることは許さない。目隠しをさせてもらう。もし奴がそれを拒否 するのならば、お前達全員同じように目隠しだ」

「嫌だ!」レゴラスが叫んだ。

「ワシだって泥棒のように目隠しで歩かされるつもりはないぞ」
ギムリがうなる。
「エルフの酔狂に付き合う気はない」

「他に選択肢がないのならば、皆で同じ思いをするしかあるまい」 怒りを露わにするドワーフにアラゴルンが云った。

「嫌だ!」レゴラスが再び、搾り出すような声をあげた。
「私は嫌だ!」

彼の下がりかけていた弓が脅しをかけるように持ち上がり、矢がぴんと つがえられる。即座に、周囲の空気が緊張に包まれた。
アラゴルンは己の背中に矢が向けられているのを感じた。それは また、フロドにも向けられている。

彼は素早くレゴラスの側に寄った。
「レゴラス」
友人の注意を引こうと、静かに囁きかける。
レゴラスは怒りと恐れの入り混じった表情でハルディアを凝視していた。
アラゴルンがそっとエルフの顎に手をかけ、レゴラスの顔をこちらに 向けさせた。
蒼い瞳の奥に宿る不安を見て、アラゴルンは心配になった。
「お前一人じゃない」
人の子が優しく語り掛ける。
「俺が側にいる。俺がいる限り、お前に何もさせやしない」

どうしてこのようなことを云わなければならないのか、彼は不思議に 思った。どうしてレゴラスは己が同胞達に対してこんなに恐れを抱く 必要があるのだ?
しかしレゴラスは明らかに恐れている。そして、激怒している。
色んな考えがアラゴルンの心中を曇らせ始めた。

レゴラスはまだ納得しない様子で、神経質に唇をちらちらと舐めている。
その動きに目を奪われている自分に気づき、アラゴルンはつとめて 目の前の問題に意識を戻した。
「レゴラス」さらに強い口調で続ける。
「何故俺達がここにいるのか、思い出せ」

レゴラスが、心から闇を追い出すように、瞬きした。
「指輪です」

アラゴルンが頷き、彼を放した。
「そう、指輪だ。これはもう俺達個人の問題じゃない。すべては指輪の ためなのだ。少しでも助けになるのなら、俺がいつでもお前の側に いることを思い出せ。お前には指一本触れさせやしないから」

レゴラスの唇が、アラゴルンが今までこのエルフが見せるなど思いも よらなかった、辛辣さに歪められる。
「どうだか」
レゴラスが囁くような声で云った。

一歩下がりながら、アラゴルンは注意深く目を細めた。
一体、友の身に何が起こったのだ?

「どうにでもしてください」
レゴラスが無表情に云った。
「あなたの意のままに」

アラゴルンはためらった。
今まで、レゴラスがこのような話し方をするのは聞いたことがない。
こんな、敗北を露わにした声音など。それはこの人の子の知る限り、 エルフの本質に反している。
しかし確かにそれは降伏だった。ハルディアが布切れを手に近づいた ときに、レゴラスの表情に表れていたのは。
ロリアンのエルフに触れられて、すくみ上がる彼の中に、それは 奇妙に映し出される。
敗北感。絶望。
後者を感じ取ったアラゴルンは、思わず抗議の声をあげようと口を 開きかけた。
しかし、フロドを見て、その首元から覗く銀の鎖が目に入り、自分には 何もできないと思い直す。
彼の不安がどうであれ、指輪はモルドールへもたらされなければ ならない。そのためには、どのような代償をも払わなければ。

アラゴルンの視界が布に縛られた。
「足元を恐れる必要はないぞ」
ハルディアがレゴラスに囁きかけるのが聞こえる。
「私の手元にいる限り、お前には指一本触れさせやしないよ、我が 親愛なる同胞どの」

レゴラスの返事は小さすぎてアラゴルンには聞こえなかった。
ハルディアが答えて笑う。それは変に不快な響きを帯びていた。
アラゴルンがそう思っただけかもしれないが。

ギムリのやかましい抗議に反して、エルフ達の扱いはしごく 丁寧なものだった。
アラゴルンは前を行くフロドの肩に手をおいたまま、常にこの ホビットの無事を確認しながら進んだ。
目隠しの為に感覚がかえって研ぎ澄まされ、アラゴルンの聴覚は いつもにもまして鋭敏になっていた。ロスロリアンに住まう鳥や獣達 のさえずりが聞こえる。見えないものが、まるで絵のように心に 浮かんだ。

だが、この黄金の森は彼の想像したとおりに光に満ちてはいたが、 ここもまた闇を抱えているのだということを彼は知った。
聞こえたのだ。それは、仲間達が森の奥深くに導かれるのに合わせて 絶え間なくレゴラスに囁きかけている。
アラゴルンは眉をひそめた。ハルディアのその囁きは、指輪が発する 誘惑の呼び声を思い出させる。
その陰湿な響き。悪意に満ちたその響き。
アラゴルンにはレゴラスとハルディアとの間の緊張状態は理解不能 だったが、そんなことはもうどうでもいい。
彼は無性に、己の目隠しを引き裂きたくなった。 それが何であれ、彼らの間に起こっている何かに歯止めをかける ために。

レゴラスの声が聞こえる。
「私に触るな」
その言葉には切迫した響きがあった。
それからかすかな、まるで押し殺したすすり泣きのような音が聞こえて 来て、ハルディアがその要求を完全に無視しているのだということが アラゴルンには見えずとも分かった。

”この道行きにはミドルアースの命運が掛かっているのだぞ”
どこからともなく聞こえる声が、アラゴルンを諭した。
”その重要性の前には、お前の個人的感情など取るに足りないものだ”
しかしそれが分かっていながらも、こうしてされるがままに、救いようも なく目隠しを甘んじて受け入れることは、耐えがたいものだった。
ほの闇い真実が、彼の心の中で形をとり始める。
それは、血に飢えた真実だ。

ロスロリアンへの入口の三角州に着いたところで、目隠しが外された。
宝石のようなロスロリアンの輝きが彼らの眼前に広がる。
その壮麗な森の光景に、旅の仲間達は我先にと進み出る。
アラゴルンもその光景に心奪われて当然だったが、興奮は薄く、 空虚なものだった。
レゴラスが他の仲間とともに前のほうに行くのを待って、それから 真っ直ぐハルディアの方へ歩み寄る。
無言のまま、アラゴルンはエルフの手からレゴラスの目を覆っていた 布を取り上げた。布に指を這わせて確かめるのを、ハルディアが そのハンサムな顔から表情を消してじっと見る。
アラゴルンが恐れていた通り、布は濡れていた。

エルフの愉しそうな視線とかち合った途端、アラゴルンの中で突然 凶暴な怒りが湧き上がった。
「レゴラスを泣かせたな」
その声はうなりに近かった。きっと、お互いにしか聞こえないほどの。
「お前達の間に一体何があったのかは知らぬが、お前が彼を 傷つけたことは確かだ。どんなことをしたにせよ、その報いは受けて もらうぞ、ハルディア。たとえ奥方であろうともお前を守れやしない。 絶対にだ」

ハルディアが浮かべていたにやけた笑いは消えなかった。
「奴が欲しいのか。エルフに育てられたゆえにもっとわきまえている はずのお前が。もうすでに他の奴と婚約しているお前がか」
ハルディアはそう云って笑い、やれやれと首を振った。
「決して手に入らないものを渇望するとは、かくも愚かしい人の子よ。
奴がお前の愛に報いてくれるとでも思うか?」そう云って冷笑する。
「だいたい、奴はそれを知ってるのか、それともその恥ずべき秘密を お前は胸のうちにしまったままなのか?」

狼狽して、アラゴルンの手のひらが汗ばむ。
ハルディアの言葉を聞いた瞬間、その言葉が真実を言い当てている ことを人の子は思い知った。
それこそが、レゴラスに対して感じていた違和感の源だ。
彼は・・・レゴラスが欲しかった。
本当は、ずっと、長い間。
言葉の裏に暗に示された含みに、アラゴルンの胸はかき乱された。
こんなことを、よりにもよってハルディアに思い知らされるとは。

「彼は友人だ」
内なる動揺が顔に出ないように努めながら、アラゴルンは冷たく 言い放った。
「友人を傷つけることは許さん」
抑制された凶暴さが視線から滲み出たが、彼はそれを隠そうとも しなかった。
「決してな」

ハルディアの瞳に不安の色が灯るのを見て、満足する。
エルフはぷいときびすを返し、アラゴルンから離れた。
人の子は追わなかった。もう云いたいことは伝わっているはずだった。
レゴラスはアラゴルンの庇護のもとにある。誰にも、彼のものを 傷つけることはできやしない。


しかし・・・”彼のもの”?
アラゴルンは深い息をついた。そう、今、自分はそう思った。
”彼のもの”。

その考えは悦びと同じくらいの痛みをともなったが、それは確かに 真実のように思えた。





一行は木々の間の大広間でケレボルンとガラドリエルの奥方に 迎えられた。穏やかに発光する彼らの保護のもと、アラゴルンは 先ほどから感じていた憤りと警戒心が、驚異的なほどの落ち着きに 変わるのを感じた。
ガラドリエルの奥方の唇が一行に対する歓迎の言葉を紡ぐのを 見ながらも、頭の中で彼女の声が直接囁きかけてくる。

”レゴラスのことが心配でならないのですね”
涼しげな声が語りかけた。
”そのことに捕われすぎています”

”彼はなにかひどい目に遭ったのだと思う”
アラゴルンは思考を返した。

ガラドリエルの優しい視線が一行を眺め渡してからフロドに注がれた が、その声は相変わらずアラゴルンだけに語りかけた。
”何故、そこまで彼のことを気にかけるのです?この旅に加わるに 当たって、彼自身危険な目に遭うのは承知の上のはず。それでも 貴方は、彼の痛みを和らげるためにこの旅自体を危険に晒したいと いうのですね”

アラゴルンがレゴラスに視線を移した。
エルフは頭を垂れ、彼もまた内なる会話をしているかのごとくに 引き締まった表情をしている。

”彼は・・・俺に、憶えのない感情を抱かせる”
アラゴルンはようやく云った。まるで裏切りに身を焼かれているような 気がして頬が熱くなる。
”自分でも理解できない感情に胸が痛むのだ”

憐れみに満ちた奥方の視線が、彼に向けられた。
”その感情に名をお付けなさい”声が囁く。
”そうすれば、裏切りに恥じ入るその気持ちは、より真実を認める 気持ちに変わるでしょう”

アラゴルンはもう一度レゴラスを見た。
自分には果たして、なすべきことをするだけの強さがあるだろうか。





ロスロリアン。

レゴラスはもう長いこと、この黄金の森を見ることを夢見ていた。
彼自身の故郷の森は夜毎出没する汚わらしいオーク達のために 混乱をきわめていたから、常に光に満ち溢れたこのロスロリアンは 彼の心の拠り所ともなっていたのだ。
いつか、その木々の繁みに足を踏み入れて、その壮麗なる森を 畏れを持って眺めるのだ、とずっと心に誓って。
そして今、まさにその堅固な境界の中に守られ、他ならぬガラドリエル の奥方から快く受け入れてもらっているにも関らず、彼は一刻も早く ここを立ち去りたかった。
単に、分かりやすいオークの危険に晒されているほうがよっぽど ましだ、と彼は思う。
美しさの裏に隠された邪悪なものと闘うよりは。

アラゴルンが何かを疑っていることはもう知っている。
レゴラスに気づかれないように、人の子は彼を監視していた。しかし、 レゴラスはもうずっとアラゴルンに見られていることに気づいていた。
まるで優しく肌に触れるような、宥めるような彼の視線。
暖かな灰色の瞳に宿る労りに、レゴラスはずっと浸っていたかった。
それがアラゴルンの愛情から発せられるものであるといいのに、と 想像しながら。
しかし、真実は冷酷だ。
彼が人の子の注意を引いているのは、今の彼がいつもと様子が 違うから、という、ただそれだけの理由。
もしもアラゴルンが本当のことを知ってしまったら、あの灰色の瞳は すぐさま冷えた鋼のようにこわばるに違いない。

仰向けに横たわって、レゴラスは森を覆う木々の葉の縁取りを眺め ながら耳をふさごうと努めた。
ロリアンのエルフ達がミスランディアを悼んで歌い続ける声は、彼を ゆっくりと耐え難い悲しみの淵に追いやる。
モリアの暗闇を出て以来まだ涙を流していなかった彼はしかし、ここ にきて目頭が熱くなるのを感じた。
眠っている仲間達にそっと視線をやり、起きている者がいないかどうか 確かめる。誰も身動き一つしなかった。

レゴラスは静かに息をつくと、ほんの少し哀しみが自分の中から 流れ出るに任せた。握りこぶしの間から水が染み出るように。
本当は誰にも見られないところで一人きり、哀しみをぶちまけて しまいたかった。誰かに見られて、その弱さに呆れられないように。
しかし、その弱さこそが、彼をその場所に留めていた。
それを認めるのは胸が悪くなるほど嫌なことだったが、彼は仲間達 から離れるのを恐れていたのだ。一人になるのが恐かった。
一人になった時、彼を待ち構えているものが。

一筋の涙が顔の横をすべり落ち、髪の間に消えていった。
その涙の跡が頬の上で乾く頃に、また一筋。
失われたものは大きすぎた。
ミスランディアは彼らが強くあるための源だった。彼の持つ叡智こそが 自分達に勇気を与えてくれていたのだ。
今や、自分達はアラゴルンの統率力に頼るしかない。
そしてそれは、レゴラスにとってはしたくないことだった。

何故ならそうすることは、人の子に多くを求めすぎることだから。
アラゴルンに対して、身の安全だけでなく、心の状態に対してまで 責任を負わせてしまうことになりかねない。
アラゴルンはそんなことは望んではいまいし、そもそも必要もないことだ。
アラゴルンが責任を持つべき相手はフロドであり、アルウェンだ。
レゴラスがハルディアと遭遇する前の心の平安を取り戻すことに対しては、 人の子には何の義務も責任もない。
それは、他人にできることではないのだから。

目隠しをされてのロスロリアンへの道のりを思い返し、レゴラスの 頬が涙に濡れた。
ハルディアは彼のことを、”愛しい人”と呼んだ。その舌に愛撫と 冷やかしを絡めて。その様子は余計に、ハルディアと他のエルフ達が 彼にした愛情のかけらもない行為を思い出させ、レゴラスは身を 震わせた。
あれは屈辱と支配でしかなかった。奴らの思い通りだ。

アラゴルンは、彼に強くあってほしいと願っている。
レゴラスの弱さを知ったら、一体あの人の子は何と思うだろう?
どちらにしろ、アラゴルンが彼のことをなんと思っているかなど たいした問題ではないのではないか?
あの人の子がレゴラスのことを気にかけるのは友情以上の何物 でもない。アラゴルンが今、レゴラスのことをたいして気にかけて いない、と考えるほうが、アラゴルンが彼を愛していないと知ること よりよほど痛みは少ない。たとえ、彼自身がずっと強く想い続けて いるのだとしても。


「泣いてる理由を教えてくれ」

レゴラスはハッと息を呑み、涙を振り払おうと目をしばたいた。
アラゴルンが側に膝をついていた。

「アラゴルン!」
早口にそう云って、慌てて手の甲で目元の滴を拭う。
「起こすつもりはなかったんです、ただ−−]

「泣いてる理由を教えろ!」
アラゴルンが、奇妙にかすれた野太い声で問いただした。

その言葉の乱暴さに、レゴラスはすくんだ。訳がわからない。
「何でもありません」懸命に言い繕おうとする。
「あの−−あの哀悼の歌に、取り乱しただけです」

アラゴルンの表情が苦痛に歪んだ。
「何故嘘をつく?」
緊迫した声でそう訊ねる。
「お前に嘘をつかれるようなことを俺はしたか?」

「いいえ!」
レゴラスは身を起こして抗弁した。人の子に向かって思わず伸ばされた その手はしかし、すぐに下ろされた。
「いいえ」そして語調を弱めた。
「あなたのせいじゃない。あなたはずっと私の友人でいてくれました。 それこそが私を悩ます原因であったと認めざるを得ませんけど、でも 本当に、アラゴルン、あなたにできることは何もないのですよ」
声に苦いものが漏れるのが分かったが、それを止めることはできな かった。
「もう取り戻しようのないものに対して泣いていたのです。己を憐れんで のた打ち回っていただけ。ただそれだけです。起こしてしまって申し訳 ありません」

アラゴルンが手を伸ばし、エルフの頬に残る涙の跡に触れた。
その信じがたいほどの優しい手つきに、レゴラスは動きを止めた。
動いたらそれを失ってしまいそうな気がして。
「ハルディアに何をされた?」
静かに、アラゴルンが問うた。

顔にかかる手の感触も忘れ、レゴラスは恐怖に駆られて彼を見た。

「誤魔化そうとするなよ」
顔を背けようとするエルフの頬を手の中に包み込みながら、アラゴルン が続けた。
「奴はお前を傷つけた。何があったか大体想像はつくが、お前の口から 直接聞きたい」

レゴラスは首を振ろうとしたが、アラゴルンの手は優しいながらもしっかり 彼をとらえていた。
「いいえ、聞かないでください」そう囁いた。
「あなたが心配することではありません。もう済んでしまったことですし、 忘れたほうがいいんです」

アラゴルンは彼をじっと見つめたままだった。眉根が寄せられ、口元は 固く引き締められている。何かを思いつめるように、一瞬遠くを見やる。
そしてレゴラスに向き直ったとき、その灰色の瞳には、レゴラスがあえて 名をつけたくないような何か深い色が浮かんでいた。
アラゴルンの親指に優しく唇をなぞられ、エルフの心臓が狂おしく跳ねた。
「ハルディアはお前を傷つけた」
人の子がつぶやく。

その瞳に宿る激しい感情を前に、口を開くこともできず、レゴラスは ただ頷くしかなかった。

「お前の身体を・・・直接的なやり方で」

レゴラスは息を呑み、恥辱で顔が燃えるように赤くなるのを感じた。
頷くと同時に、頬を一筋の涙が流れ落ちる。

「何てことだ!」
アラゴルンが絞り出すように叫んだ。その声は苦痛に歪んでいた。
「俺が必ずその報いをくれてやる、レゴラス。誓って必ず」

レゴラスは理解できず、彼を見返した。
「何の関係があるのです?」
弱々しく訊ねる。
「何故あなたが気にするのです?私はこれまで通り、仲間とともに 行きますよ。何も変わってはいません。もっとも」−−そのあとの言葉を 続けるのは苦痛でしかなかった−−「もっとも、全てを知った”あなた” の、私に対する見方が変わるのでない限り、ですが」

アラゴルンの瞳が傷ついたように瞠られた。
「俺がそんな奴だと本気で思っているのか?俺が一体、お前のことを どれだけ思っているか、知らないというのか?」
そう云ってから、彼は驚きの表情を見せた。
自分が云ったことが自分でも信じられないとでもいうように。

レゴラスは自信なさげに云った。
「私のことを友人と思ってくれているのは知っています。その気持ちを 大切にしたい」
そう云って微笑もうと努める。
「それを失いたくはないのです。私たちの間に何が降りかかろうと」

アラゴルンの瞳が暗い光を帯びた。
「いいや、友人なんかじゃない」
彼はレゴラスの腕を掴むと、エルフを引き上げて立ち上がらせた。
「お前が無残に傷つけられて初めて、お前に対する気持ちに気づく ことになったとは本当に済まない。来い、レゴラス。お前の肌に 残る忌まわしい痕跡を別のものに変えてやる」
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