The End of Beauty (美しきものの終焉)



〜(1)〜



アラゴルンが最も恐れていた事態が訪れようとしていた。
それは、この世の美しきものと光り輝くものが絶え果てること、すなわちこれまで 自分が愛し、謳歌してきた希望が消え失せることであった。
メリーとピピンを連れ去った忌まわしき存在に一歩一歩近づくにつれ、アラゴルン の描く平穏な人生の夢は未来の王が抱くべき崇高な目標には程遠く、無知な 人間どもの抱く幻想のように思えてくる。
自分は仲間達とともにやみくもに破滅への道を歩んでいる。
いいや、もっと悪いことに、進んでその道を行こうとしているのか。

お前は愚か者だ。夕闇に沈む森を抜けてギムリとレゴラスを導きながら、彼は 自分自身を罵った。
裂け谷はお前の知る最後の光だ。
もはや、二度と愛する人にまみえることはないだろう。

愛する人・・・。
自分にしか見えない心の中でさえ彼は、彼女の名前を口にすることを恐れた。
アラゴルンの魂はすでに、あの指輪に汚されていたから。
フロドが指輪を彼に差し出したとき、それはアラゴルンの奥底から彼自身が 抱いているなどと思いもしなかった力への執着を引き出したのだった。
そんなものにエルロンドの娘との想い出を歪められることなど許せない。
ましてや彼女が、思い起こせる最後の美しきものであるならば−−

風がふんわりと頬を撫でた、と思うとレゴラスが軽やかに彼を追い越していった。
いいや。アラゴルンは落ち着かなげに認める。
最後というわけではあるまい。
意思に反し、人の子の視線は木々の間を縫うように歩くエルフのほっそりとした 肢体を追った。
苦々しく考える。己の愛情の向かう先が柔らかな黒髪から明るい金の髪に 取って代わったのはいつの頃からだろう?
もう一人の者の名を慕わしく口にするようになったのは、いつの頃からだろう?

恥ずべき裏切りにこの身を汚されてはならぬ。
上衣の下に架かる夕星の首飾りをぎゅっと握り締める。
彼女だけが、希望の光だ。
離れていくレゴラスの姿から視線を引き剥がしながら、彼は自分に言い聞かせた。
首飾りの先端が掌に食い込む。
彼女こそが美しきもの。お前が戦うべきは彼女のためなのだ。

しかし、森の向こうで鋭い悲鳴が上がった時、彼の心臓の鼓動が跳ねたのは 彼女のためではなかった。
剣を抜き放ったアラゴルンは背後で息を切らすギムリになど目もくれず、木々の 間を突き進んだ。
木立の向こうで上がる混乱と喧騒に人の子のうなじが総毛立つ。
慣れ親しんだ冷え冷えとした恐怖心とアドレナリンが身体中の血管を駆け巡る。
自分を待ち受ける禍々しいウルク=ハイの群れを想像し、そこで何故か彼の 足取りは乱れた。
裏切り者の思考が頭をよぎる。
ここで、引き返すこともできるのだぞ。旅の仲間はもはや存在しないのだ。
見るものすべて、触れるものすべてがこの忌まわしき奴らに汚され尽くすまで、 あと一体どれだけの恐怖と死とを飲み込まねばならぬのだろう?

甘やかな弓矢の飛来音が、彼のとまどいを切り裂いた。
己にどんな逡巡があるにせよ、レゴラスは助けを必要としている。
一時でも躊躇した自分に腹を立てながらアラゴルンは混戦の中に身を投じた。
驚いたことに、レゴラスはその混乱の中心にいた。
白金の髪を輝かせ、集中に眉を寄せながらエルフはアラゴルンが羨む平静さを 湛えて際限なく襲い来る群れに次々と矢を放つ。
そのエルフの勇敢さに後押しされ、人の子は道を切り開いて肩を並べた。

先程の己の躊躇を振り払うかのように、アラゴルンはあらん限りの力を注いで 戦った。
足元には屍骸がうず高く重なり、剣がその血にどす黒く濡れる。
叩き切り、削ぎ落とし−−叫びをあげる相手から刃を引き抜いて、ようやく全て の敵を葬り去ったことを知った。

「お前さんは素晴らしい戦士だな!」
背後にいたギムリが呼びかけた。
「その戦いぶりといったら、まるで十人分の屈強な人間並みだ!」

「あるいは、エルフ一人分のね」
レゴラスがからかうように云った。

荒い息をしながらアラゴルンは汗に濡れた髪を振り仰いで、微笑むエルフを 横目に見た。
色素の薄い髪がそそるように先の尖った耳に絡み付いている。
薔薇色に上気した頬が、信じ難いほど美しくレゴラスを輝かせる。

恐ろしいことに、アラゴルンの体内で燻るような熱が渦巻き始める。
とっさに彼は吐き捨てるように云った。
「襲撃されるなど、一体どういうことだ?」
レゴラスの表情から微笑が消えるのを見ながら、胃の辺りに奇妙な不快感が わだかまるのを感じる。
「襲われるまで敵の近づく音に気付けないのならば、お前のエルフとしての知覚 なぞ何の意味がある?」

唖然として、レゴラスは回収していた矢を取り落とした。
「奴らは待ち伏せしていたんです」
そう抗議する。
「何も聞こえなかったから−−」

「聞こえなかったのは、お前が森とそのしなびた歌声に気を取られていたから だろう!お前のせいで、俺達全員が倒れていたかもしれんのだぞ」
アラゴルンはそう責め立て、剣を乱暴に鞘に収めた。
「そうなれば、可哀想なメリーとピピンは一体どうなると思う?」
傷心と憤りで蒼白になったエルフの様子に耐えられず、身を翻す。
人の子は一切の感情が出ないように声を低めた。
「自分の務めを果たせ、レゴラス。お前が森に魅入られて気をそらすのはリスク が大きすぎて許しがたい」

レゴラスは誇り高きエルフである。
アラゴルンはそのことをよく知っていたので、横柄な返事が返ってくるものと 予測していた。
しかし、ギムリでさえもがあっけに取られたことに、エルフは踵を返して矢も打ち 捨てたまま森の中に姿を消した。
どういうわけか、そのレゴラスの沈黙はエルフに自己弁護をされるよりも一層 アラゴルンの心をかき乱した。
それは何か内包的なものをほのめかす。野伏が最も望んでいないものを。

ギムリが側に寄って来て、好奇心と居心地の悪くなるほどの明敏さに小さく黒い 目を瞬かせた。
「アラゴルン−−」
ドワーフが口を開いた。

「何も云うな」
人の子が遮った。
「それぞれの感情を思い遣っている場合ではない。生きるか死ぬかなのだ。 失敗は許されぬ。旅の仲間の目的は成就されねばならんのだ」

「レゴラスは決して空想に耽ってばかりの怠け者ではないぞ」
ギムリが柄にもなく、怒ってエルフを庇った。
「奴の技量は旅の仲間の中で立派に役割を果たしとる。奴がいなけりゃ、ワシら はここまでだって辿り着けていたかどうか」

アラゴルンはエルフがいつも慰めを見出していた森に目をやった。
他人の声のように、自分が話すのを遠くに聞く。
「俺達の果たすべき使命を助けてくれるものなどこの世の何処にもありはしない、 とレゴラスが気付くのが早いほど、俺達はそれだけ早く故郷に戻れるはずだ」

そして俺達を待つ人のもとへ、と彼は加えたかった。
しかしその考えはかつてほどの慰めを与えてはくれない。

彼はドワーフに背を向け、腰を屈めてその辺の屍骸からレゴラスの矢を引き 抜いた。
ギムリが苛立ち混じりの鼻息を鳴らしたが、アラゴルンは無視した。
胸のうちで痛みと自己嫌悪が激しく渦巻く。
彼はドワーフに、不安定な状態の自分を見られたくなかった。

しかしアラゴルンが本当に心の底から恥じ入ったのは、レゴラスが森の向こう から無言のまま姿をあらわし、再び揃って進み始めてからだった。
いつもどおり先頭を行くエルフの、金髪の頭は高く真っ直ぐに据えられ、茶色い 双眸は固い決意の色を見せている。
彼はもはや、常によくしていたように頭を巡らせて木々や動物達を愛でたりは しなかった。
彼らの頭上の鳥が魅力的な声でさえずった時も、他の二人を除くレゴラスだけ が振り仰ぎもせず賞賛もしなかった。

こうなることをお前は望んでいたのだろう?
前を行く強張った背中を見ながら、アラゴルンは自問した。
勝利の味をまるで苦い砂のように噛み締めて己をあざ笑う声を聞く。
レゴラスはもう、自分を取り巻くこの世界に美しきものを見ることはないだろう。
でかしたぞ。これで、彼もお前と同じだ。

夜営は居心地の悪い沈黙に包まれていた。
人の子とエルフの間ではウルク=ハイとの戦闘以来、まだ一言も言葉が交わ されておらず、ギムリはしょっちゅうぶつぶつと非難のつぶやきを発していた。

アラゴルンが手の食べかすを拭いながら聞いた。
「誰が最初の不寝番につく?」

「わたしが行きます」
他の二人が答える間もなく、レゴラスは暗がりの中に姿を消した。
その方向をアラゴルンが眺めやる。
野伏は、レゴラスが他の者の番になっても起こしに戻ってこないのでは、という 疑いを持った。
エルフは証明しなくてもよいものを証明するために一晩中見張りを続ける気だ。

そんなことをだらだらと考えるのに嫌気がさして、アラゴルンは地面から適当な 石を拾い上げると己の剣を砥ぎ始めた。

「今日のお前さんの戦いぶりなら、葦草一本持つだけでも同じように戦えるだろう な」

ドワーフの発したその褒め言葉に頭を傾け、アンドゥリルを磨き続ける。
「もし選べるなら鋭い刃の方を願いたい。俺はあんたほど疲れ知らずな強さの持ち 主ではないからな」

ドワーフは顔をしかめた。
「強さにもいろいろある」
常になく哲学的な調子でそう答える。
「お前さんのは他者を導く者としての強さだ。お前さんが頼みさえすれば、数多くの 者達が己の身の滅ぶまであんたに従うだろう」

アラゴルンは手を止めて視線を上げた。
「あんたはそう思っているのか?俺は皆を破滅へと導くと?」

ギムリの表情が曇る。
「堕落というのはいつも行く先に待ち構えているわけではないぞ。時には、ワシら の内に隠れて付いて来ていることだってある」
ドワーフの視線が、いつしか夕星の首飾りにのびていたアラゴルンの手に据え られた。
「闇への誘惑に屈服することは何も、剣の戦いによってどうこうするだけのもの ではなかろう。実際、ワシには時々、人の子の強さがもっと柔らかなものに 試されているように思えるのだが」

アラゴルンは夕星から手をもぎ離した。
「ドワーフにしては、なかなか説得力のある意見だな」
そう云って剣を寝床の上へ置き、疲れた溜息をつきながらごろりと横になる。
「俺にかまを掛けようとするのはよせ、友よ。ここにいる人の子は疲れ知らずとは 程遠いのだからな」

「頑固者め!」
ギムリは低い声で唸ったが、それ以上は何も云わず、上掛けにもぐり込んで しまったのだった。
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